れりすぽっ

気まぐれに気ままにマビノギ系の生活を綴ったモノ。
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:-- | スポンサー広告 | Trackback(-) | Comment(-)
駄文の第三十一話
「現実と虚構の境界線は?」


まず、よく聞くフレーズとして、
「現実と虚構の区別をつけやがりなさい」
というのがあります。
凶悪な未成年犯罪があったとき、たまにというかしょっちゅうというか、
「現実と虚構の区別をつけられない若者が云々」というコメントをする人がいます。
そんな社会問題もどきについてサクリと切れ込みを入れてみることに。


2つ以上の概念に区別をつけるためには明確な定義とか境界線が必要なので、
冒頭のセリフのようなクエスチョンが沸いたわけです。

境界線……うーん、どのへんだろう。


人間の見る映像というものは、様々な光の波長が目が取り込んで、
神経信号に変換して脳が作り出したものだし。
音というのは空気振動を信号変換して脳が処理したもの。
匂いとか味は粘膜についた成分を信号変換して脳が処理したもの。
触覚は圧力変化と温度変化を信号変換して脳が処理したもの。

こうして考えると、五感で感知したことは全て人間の脳が処理していて、
そこから作られる世界というのは、人間の脳が作り出した虚構の産物とすら思えます。
しかも五感の性能は個人差があるし、
目が悪かったら風景はぼやけるし、あるいは見えないし、
でも他の感覚を駆使して生きていけるように世界を構築したりして、
その世界は五感全てで構築したものとはまるで違うでしょう。
マサイ族の目、絶対音感、鋭敏な味覚、敏感すぎる肌などなど、露骨な個人差があります。
要するに、五感で感知していることすら普遍的ではありません。
ここまでの論理を踏まえると、世界が醜く感じられる人は、そりゃ自分の構築してる世界だから自分のせいだと思ってほしい。
数学とか物理とか化学とか。
あのへんは虚構のカタマリだと思います。
1+1=2とか、人間が色々と勝手に決めて、そこから数をこねくりまわしていじり倒して、
イヤンバカンモウダメンあぁそんなもうわけわかんない的なことになってます。
全ては脳内の出来事。テイラーさんもガウスさんもオイラーさんも妄想大好き。
量子力学なんて目で見ることも出来なくて耳で聞くことも味も匂いもさっぱり不明、
そんな微小なスケールでの現象にリアリティを感じろというのも難しいです。
化学は現象を具体的に見れることが多いですが、
同じものを反応させたからといって、同じ結果が出るという保証はどこから沸いたのやら。
科学は自然現象に対する多数決で成り立ってるので、
絶対的かつ普遍的というにはちょっと甘いと思います。

このように学問のジャンルにおいても、現実なのか虚構なのか曖昧なところがちらほら。
下手な論文を書くと、
「小説家にでもなったほうがいいんじゃない?」
なんて生温かいコメントを頂けたり。
まぁ、そこまで毒が強くなくても、
「面白かったよ。想像力がたくましいねぇ」
と快活に苦笑いされつつ封筒に紙束を入れたまま返されたり。
科学全般は人間の想像によるものなのに何をおっしゃりやがりますか。


閑話休題。


そんなわけで、リアリティの代名詞みたいな科学についても、
現実なのか虚構なのか曖昧になってきました。
お次はフィクションの代名詞たる漫画とか小説について考えてみるとしましょう。

面白い漫画とか小説というのは、リアリティがある程度盛り込まれています。
なんかいきなり矛盾しまくり。フィクションなのにリアリティがあるとか。
いやー、だって「こんなこと起こるわけねーよ」とか読者に思われたら、
もうそれ以上は読んでもらえないし。
ちなみに、ある程度かじったことのあるスポーツの漫画は、まず読みません。
「こんな超人プレイありえない!」とかバカバカしくて。
起こりうるかもしれない、あるいは実際に起こったことという認識が読者にあるほど、
読者は物語を読み進むものです。モリモリと。
下手な小説よりも、知り合いの日記のほうが面白く読めたりするようなものですかね。

漫画とか小説は作者が脳内で組み上げた物語なのに、
読者はそのところどころにリアリティを感じる。
フィクションなのにリアルティがある。矛盾っぷりが素晴らしい。

映画だとさらに不明瞭です。
実写だけにリアリティが抜群ですが、ストーリーは脚本家が書いたフィクション。
でも、映画を観ながら「これは現実にあったことじゃない」と思える人は少ないと思います。
いくらストーリーが作り物でも、アクターの動きは本物ですし。
歴史モノに至ってはストーリーすら過去の現実の再現になるし。(多分)
もはやどこからが嘘でどこからが本当なのやら。

さらに恐ろしいことに、現実はフィクションに追いついたりするし。
ニュートリノ通信あたりは早く追いついてほしい。
ああもう、いったいどこらへんにラインを引いて区別したらいいのやら。


カンガエチュー。


カンガエチュー。


カンガエチュー。


(どーん)



出ました、結論が。
境界線をつける必要はない。
クエスチョンに対するアンサーとしては極大的に不親切な回答ですね。
言い換えると、
現実も虚構も全て人間が生み出したものだからあんまり変わんない。
もはや投げやりです。

ただ、この回答に至ったのは投げやりなのが半分、
もう半分は冒頭のクエスチョンの裏の質問に対する答えだからです。
冒頭の疑問の真意を考えてみると、

「現実と虚構の境界線は?」
「なぜそんなことを聞く?」
「その区別がつけば、虚構世界に浸った人間による犯罪が減るんじゃない?」

えーと、減らないと思います。
犯罪を犯すというか、他人に迷惑をかけるのは「痛みを知らないから」だし。
他人の痛みを自分の痛みとしてフィードバッグできるくらいのことをやってのければ、
他人を傷つけようなんて思いません。
他人に迷惑をかけると心が痛むようになってれば以下同文。
まぁ、傷つけたとしても治療して跡形もなく傷を消せばいいんですが。
そんな甘っちょろい論理だと日和見すぎですね、ハイ。

現実であれ虚構であれ、
「やってはいけないこと」というのを教えてくれるチャンスがなければ、
やってはいけないことをやってしまうものでしょう。
そのチャンスは、現実の中でも虚構の中でも起こり得ます。

現実では、
「自分がやられてイヤなことは他人にやってはいけません」
とよく言われます。いやまったくその通り。
また、とある物語では、
「人助けはよいことです」
みたいなシーンが多数あります。まったくをもって同意でございます。
どちらも良心を育む上で重要なビタミンです。

現実では、
「犯人を許せません。もう○○してやりたい」
とかいう本音ボイスがありました。そりゃ悔しいですからね。
また、とある物語では、
「生活が苦しくてもう○るしかなかった」
とかいうパターンがけっこうあります。他に方法がないとそうなりますかね。
どちらも目と脳が曇ってうっかり肯定してしまいそうな場面です。あぁデンジャー。

現実と虚構の区別がついたとしてもつかなかったとしても、
結局のところ良心とか良識さえあれば問題は起きないかと。
聖書は預言書というあたりがうさんくさいけど、いいこと書いてます。
区別して、どちらが正しい、どちらが間違っている、という姿勢ではなくて、
区別はできなくて、各々のケースで正しいことと間違っていることが存在する。
その正しいことと間違ってることを認識できる視点があるかどうか、
そこがまず問題なんじゃないかな、と思います。
そのへんを見極めるアビリティがないと――悲惨なオチが手薬煉引いて待ってます。
でもだいじょうぶ。多少の不幸エピソードは笑い話に進化させます。


おや ふこうなはなしのようすが……
なんと ふこうなはなしは わらいばなしに しんかした。


最終形態はどうしよう。伝説あたり?

というか凶悪犯罪が全部フィクション産物のせいなら、
クリエイターは全員縛り首でしょうか。酷すぎる。
スポンサーサイト
Comment
≪この記事へのコメント≫
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
Secret: 管理者にだけ表示を許可する
 
Trackback
この記事のトラックバックURL
≪この記事へのトラックバック≫
Designed by aykm.
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。